2026.08.10

.「メリトクラシー」、一見公平なようだけれど、能力を発揮し得る条件や機会は、本当に平等なのでしょうか?今、目の前にいる人の...


「メリトクラシー」、一見公平なようだけれど、能力を発揮し得る条件や機会は、本当に平等なのでしょうか?

今、目の前にいる人の姿や成果を、その人の生まれつきの才能から成っていると思い込むのはどうでしょうか?

IQ95よりIQ120の方が25高いからといって、人間的能力がその分だけ高いわけではない。

高学歴である人の方が、その分だけ知性が高いということもない。

スティーヴン・ジェイ・グールドはこんなことを書いています。

“I am somehow less interested in the weight and convolutions of Einstein’s brain than in the near certainty that people of equal talent have lived and died in cotton fields and sweatshops.”
(アインシュタインの脳の重さや脳回の複雑さなどには、私はそれほど興味がない。それよりも、アインシュタインと同等の才能を持った人々が、綿花畑や工場で生まれ、そして死んでいったことのほうが、ほぼ確実だという事実に関心がある。)
Stephen Jay Gould The Panda’s Thumb: More Reflections in Natural History
第4部・第13章Wide Hats and Narrow Minds

環境という変数をすべて無視して、結果だけを能力として測ってしまうと、何か大切なものを見落としてしまうかもしれません。

「才能のある人間を探す」より、「才能が発現する環境をつくる」ほうが重要なのかもしれません。

もちろん、人間の能力には生得的な差異はあって、
すべてがフラットだということではない。

ただ、その能力がどう現れるかは、環境や文化、経験、そして機会との相互作用の中で決まっていく。

その人が育った国、家庭、習慣、教育によって、「当たり前」や「常識」そのものまで変わってしまうわけです。

16世紀フランスの思想家・哲学者・随筆家、モンテーニュは、子どもの教育について、知識を頭に詰め込むことよりも、自分で考え、判断する力を育てることを重視しました。

モンテーニュから数百年後、20世紀アメリカの古生物学者・進化生物学者であるスティーヴン・ジェイ・グールドは、才能を発揮する機会を得られなかった人々に思いを馳せました。

時代も学問的背景もまるで違う二人ですが、共通しているのは、

「人間を最初から決まったものとして扱わない」

ということなのかなと思うのです。

才能を測ることより、才能が何になるかわからない段階で、その可能性を潰さないこと。

コロンビアのコーヒーを焙煎していて、ふと思ったことでした(笑)

コーヒーの生産者が置かれている環境は、果たして正当に評価される環境にあるのだろうか、と。

教育論的なことは分かりませんが、スティーヴン・ジェイ・グールドの『人間の測りまちがい』、機会があったらぜひ手に取ってみてください。

明日もまた10時から、いつもの環境で、お待ちしてます。
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