善意は正解なのでしょうか。
文脈や境界を越えれば、それは時に暴力的でもあること。
コーヒー屋をやっているので、コーヒーのいろんな話を聞きます。
朝のコーヒーには身体に良い。
飲むだけで脂肪が燃えて痩せる。
ガンの特効薬。
あらゆる病気の予防に役立つ。
コーヒーにはカビや毒素があるからガンの元。
不妊の原因になる。
妊娠中は完全な劇薬。
コーヒーを飲むとシミができる。
もはや都市伝説的な面白さ。
コーヒーとは離れますけど、病気や身体のことでも、「ワクチンを打ったから自閉症になった」なんて話まであります。
どうにも短絡的だなぁ、と思ってしまいます。
もちろん、原因を探ることは大切です。それが分かれば、取り除いたほうがいいものもある。
でも、
「その後に起きた」ことと、
「それが原因だった」ことは違う。
ひとつの研究があることと、そこから結論を導けることも違う。
原因を見つけて、悪いものを取り除けば、正しい状態に戻れる。
そんな考え方が人間に向いたとき、少しずつ話が変わってくる。
「こうあることが正常で、そうでないものは異常だ」
そうやって人間を分け始めると、
「障害をなくしたい」という願いが、「障害のある人はいないほうがいい」という思想にまで、変わってしまうことがある。
もちろん、障害によって生まれる暮らしにくさは、減らしていけばいい。
でも、
「障害をなくすこと」と
「障害のある人をなくすこと」は、
まったく違う。
その境目を、人間が簡単に越えてしまうことが、僕には少し怖い。
問題は、必ずしも悪意から始まるわけではないところにあります。
「危ないらしいよ」
「念のため、気をつけて」
そんな善意から、噂や偏見が生まれることもある。
だから、善意も少しくらい疑ってみても良いのかな。
これは本当にそうなのか。
僕は何を根拠にそう思うのか。
これを誰かに伝えることは、本当にその人のためなのか。
人間も、身体も、社会も、たぶんそんなに単純ではありません。
分からないことを、分からないままにしておく。人を簡単には分類しない。
自分の「正しさ」を誰かに押しつける前に、一度立ち止まる。
そうやって少しだけ余白を残すことが、人に対してできる、ひとつの優しさなのかもしれません。
何かを悪者にしなくてもいい。
すぐに答えを出さなくてもいい。
分からないままでも、その人を大切にすることはできると思っています。
明日はお休みをいただきます。
土曜日には、思い思いにコーヒーをどうぞ。
