100歳の翁は、子どものころのサツマイモの味を語り、その傍らで娘さんが「だから、よく焼き芋、買うよね」と言って笑う。
これは、食の記憶がそのひとの中に長く残ることを示す。100歳になっても、食の味は生き生きとよみがえる。味の記憶は100年近くも保存される。
寺田匡宏 人文地球環境学「ひと、もの、いきもの」と世界/出来
はなみずき書店 @hanamizukibs さんで今日購入した本なので、読みが相当浅いですので、自分が何言ってるか分かりにくいですが。
食の記憶が1世紀近くも明確に残るのだとすれば、個人の嗜好性としての食、味の好みは、その個人のアイデンティティに大きく関わるもの。
フランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した概念にハビトゥスという概念があります。
個人の経験を通じて無意識のうちに形成される、知覚・思考・行為の性向のことを言います。
英語の「habit」 習慣や習性、癖の原型の中世ラテン語。
食…味もハビトゥスとしての一面があります。コーヒーを巡る嗅覚、味覚の体験もまたそこに含まれるでしょう。
記憶としてその香りや味わい。美味しいと思うものは、行為に中に埋め込まれた経験によって規定されます。
僕が初めて衝撃を受けたコーヒーの味は正直なところ再現できません。
そもそも記憶としての食ですから、主観によって大きく理想化されています。
ただその記憶つまり経験が僕のコーヒーに対する志向性を決定づけています。
自分の原点となる味、それを再現しようとしても、同一なものは作れません。味というのは工業製品のような均一性を持たないものです。
ただ個人の経験として形成された味覚を関係性の中で繋いでいくことはできると思っています。
僕のコーヒーを誰かが良いと思ってくれたら、その志向性は受け継がれます。
ハビトゥスとしての食。それはコーヒーがあっての話です。持続可能な食の未来のハナシになってしまいますが…
100年後に僕はいないので、その頃の食がどうなっているのかは分かりませんし、100年後となると2125年ですから…コーヒーがあるのかどうか。
今、未来を担う子どもたちも、100年後にはどれだけ残っているかも分かりませんが、コーヒーそのものがなくならない限り、味、香りという不可視のものが引き継がれて行くはずです。
100年後もコーヒーが楽しめる世界であることを願って、環境というものを未来に繋いでいけるようにしたいものです。
明日はお店はお休みです。飯舘村でコーヒーを売ってきます笑
#unit_coffee_stand