ラプラスの原則
珍しいことには、それに見合うだけの証拠が必要だ。
The weight of the evidence should be proportioned to the strangeness of the facts.
— Principle of Laplace
Théodore Flournoy, Des Indes à la planète Mars (1899)
「ラプラスの原則」として紹介したのは、19世紀末のスイスの心理学者、テオドール・フルノワ。
彼は、エレーヌ・スミスという女性と出会う。
彼女はトランス状態になると、インドの王女になったり、過去の人物と交信したり、さらには火星へ行って火星人と話したりしたという。
「インチキだ」と切り捨てることもできるし、「本当に交信した」と信じることもできます。
けれどフルノワは、そのどちらにも急がなかったのです。
長い時間をかけて彼女の話を聞き、観察し、その体験がどのように生まれたのかを考えた。
なんだか少し懐かしいような思いが湧きます。
僕自身、北海道、福島と移りながら心理学を学んできました。
人が「信じられないような体験」をしたとき、それをどう経験し、どう意味づけ、そしてどう他者に伝えるのか。
そんなことに興味があったのです。
たとえば、科学や医学を学んだ医療従事者が、病院の霊安室で手を合わせたり、幽霊を見たと話したりする。
「そんなはずはない」と断じることはできるのです。でも、実際にそういう体験をした人はいるわけです。
僕はそうした人を募って、話を聞いたことがあります。
そして少し不思議だったのは、「話してもいい」と応じてくれた人のほとんどが女性だったこと。
もちろん、それだけで何かを説明できるわけではないのですけれど。
ただ、フルノワが研究したエレーヌ・スミスも女性。
そして日本にも、よく似た話があります。
福来友吉という心理学者。
彼は東京帝国大学で、御船千鶴子や長尾郁子、高橋貞子といった女性たちの透視や念写を研究した人。
「人間の念によって、写真乾板に像を写すことができるのではないか」
研究は激しい批判にさらされ、福来は東京帝国大学を辞することになります。
その後、仙台へ移り、研究を続け、福来心理学研究所を設立。
僕は仙台出身なので、この話には少し近しいものを感じます。
しかも、僕の心理学の師にあたる先生が、昔そこで資料を整理するアルバイトをした、という話を聞いたことがあるのです。
念写の原板や当時の資料も、仙台に残っています。
そして面白いのは、福来が研究した「念写」というものが、研究の歴史だけで終わらなかったこと。
後の時代には、別の形で物語の中へ入り込んでいくのです。
たとえば『リング』。
この物語には、御船千鶴子や長尾郁子が相次いで亡くなったこともモチーフとして取り込まれています。
貞子の「念写」という設定には、福来友吉らが研究した念写・透視のイメージもあります。
もちろん、これは念写が本当に存在した、という話ではないわけです。
ただ、ひとつの奇妙な体験や、それをめぐる研究が、批判され、忘れられ、形を変えながら、いつの間にか物語として僕たちのところまで届いている。
かつて誰かが「本当に起きた」と語ったものが、別の時代には「物語」として語られる。
そう考えると、『リング』も少し違って見えてきます。
科学と迷信。
現実と物語。
信じることと、信じないこと。
その境目は、案外きれいには分かれていないのかもしれないと思っています。
科学的に説明することと、体験した人を尊重すること。
その間には、何かもう一つルールがあるんじゃないだろうかと。
「幽霊は本当にいるのか」と問うだけでは、その人の体験には届かないのです。
かといって、「本人がそう言うのだから本当だ」とすることでもないわけです。
信じるか、信じないか。
その二つの間に、「分からない」という場所がある。
「まだ判断できない」と言って、もう少し見てみる。
自分が理解できないものを、理解できないという理由だけで切り捨てない。
でも、理解できないからといって、好きな説明を与えない。
そして、そこにいる人を忘れない。
僕は、たぶんその間にあるものが知りたいのでしょう。
ラプラスの原則。科学的であることと、フェアであることは、案外近いところにあるのかもしれません。
さて、この話はコーヒーと何か関係があるのでしょうか。
しばし考えます。
明日も10時から。お待ちしてます。
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