二本松市をぐるっと楽しもう♪

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-霞池・フジ棚-
藤の花満開時の様子。5月中旬が見頃です。

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-霞池-
6月の下旬頃から蓮の花が咲いています。

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-二本松藩 戒石銘碑-
藩士の戒めが刻まれています。

霞ヶ城の歴史

二本松城の歴史



二本松城は、室町時代中期に奥州管領を命じられた畠山満泰が築造し、以後畠山氏歴史の居城として140年余り続きました。その後、天正14年(1586)伊達政宗の執拗な攻撃に遇い、落城しました。
豊臣時代になると、二本松城は会津藩主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのはこのころだと推定されます。
その後、徳川時代初も会津領として、蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。とくに、加藤氏支持時代には本丸を拡張したことが平成6年の石垣解体調査で確認されました。
二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主丹波光重が10万700石で入城し、幕末まで丹波氏10代の居城として220有余年続きました。戊辰戦争の際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。 福島県立霞ヶ城公園



-箕輪門-



丹羽光重公は、霞ヶ城築城にあわせて門の建設も行い、材料となる樫(カシ)の木を領内全域に手を尽くして求めた結果、箕輪村(現在の二本松市内)山王寺山のご神木を主材とし、この門を楼門として立派に完成し、「箕輪門」と命名しました。石垣と累々たる城壁、城門は十万石大名の威容を示していました。戊辰戦争によって、灰燼(かいじん)と帰しましたが、再建の声が高まり、昭和57(1982)年に再建されました
 

-少年隊群像-


 

戊辰の役(戊辰戦争)でふるさとを守るために若い命を散らした、二本松少年隊を顕彰する群像。二本松市名誉市民であります彫刻家・橋本堅太郎氏に依頼して制作したものです。
平成8(1996)年7月28日建立。
 

-戒石銘(国史跡)-



昭和10年文部省史跡指定
五代藩主・丹羽高寛公が、家臣の儒学者・岩井田希夷(昨非)の献策によって、藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針とし、一夜のうちに刻ませたものであると云われています。(意味)
「お前(武士)たちの棒給は、領民の汗と脂の結晶なのである。
つねに感謝をし、領民をいたわなければならない。
これに反し、領民を苦しめれば、必ず、天の怒りに触れるであろう。」
 

 -洗心亭- 

 

昭和51年二本松市指定有形文化財
もともとは丹羽藩主時代、霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」です。
天保8年(1837年)山崩れにより墨絵の茶屋が倒壊し、これを阿武隈川河畔に移して再建し、藩主の釣り茶屋となっていたのを後に、現在地に移し「洗心亭」と名づけたものです。
 

-丹羽神社-



傘松の近くにあり、歴代藩主丹羽家が祀られている所です。
 

-少年隊顕彰碑-


 
戊辰戦争の直前まで藩内少年武士が鉄砲の稽古をした場所で、 戦に出陣した隊員六十四名の顕彰碑を紀元2600年(1940年)記念事業として建立したものです。
 

-新城館-

少年隊顕彰碑と同じ場所にあった建物で天正期には本城的機能を果たし、重要な施設であったことが発掘によって判明しました。
記録の少ない中世二本松城の姿の一端が明らかになっています。
 

-智恵子抄詩碑-



「 あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川 」

明治、大正、昭和にかけて詩人・彫刻家として有名な高村光太郎が、最愛の妻・智恵子を偲んで詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句です。
昭和35年(1960年)に建立されました。
この自然石は「牛石」と呼ばれ、畠山満泰が築城の際にいけにえにした牛が石に化したものと云われております。
大小一対の牛石には、「あどけない話」の銅版がはめ込まれています。また、周囲の円形野外劇場のイメージは詩人の草野心平が発案。
 


-日影の井戸-


「日本三井戸」の一つ、「日影の井戸」。
千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とならび、称されています。
建設は畠山氏築城の頃、応永年間(1400年頃)といわれ、井戸の深さ16m、井戸の岩盤をえぐって、さらに北に14mに達しています。
また日影の井戸からあじさいロードへ向かって、天守台下にある二本松城内でも古い石垣を下から確認することが出来ます。
 

-本丸跡-



平成19年7月26日に「二本松城跡」として国史跡指定となりました。この石垣は安土城の石垣を積んだ穴太衆(あのうしゅう)とよばれる、優れた石工集団によって積まれた。
平成になって発掘調査とともに崩落を防ぐために、その同じ集団の末裔により、積み直し再建された。
 

-搦手門跡-


 
城の裏面にあたる門のことで、現在は石垣、および門柱を建てた礎石を残すばかりです。
この門は、二本松城始築時の慶長初期(1590年)頃に建てられ、その後に何度か修復改築されたことが絵図等でわかります。 一般的に、城は敵に対する正面(大手)の防備は堅固ですが、 裏面(搦手)はそれに比べて弱い所からこの語の起源になっております。