最終日にアインシュタインは降伏せざるをえなくなった。ボーアの推論には何の矛盾も見出せなかった。彼はしぶしぶ負けを認め、量子力学に対する憎しみのすべてを、その後何年にもわたって何度も繰り返すことになる台詞に込めると、立ち去る前にボーアに向かって文字どおり吐きかけた。
「神は宇宙を相手にさいころを振ったりはしない」
ベンハミン・ラバトゥッツ 恐るべき緑
相変わらず長くなりかつ意味不明かもしれません…
古典的物理学では物理量は、観測の有無にかかわらず常に確定しているとされます。
理解出来ないのはあくまでも我々が「知らない」から。もしすべての条件が把握できたら、未来の状態は完全に予測できるとされています。
個々の事象が複雑すぎて追跡できない場合、つまり知らない、分からないという時においてのみ確率が使われます。
例えば電子の動き、分子の動きの法則、サイコロを振ったときの各目の出る法則なんかも。
一方で量子力学で予測できるのは、それぞれの結果が得られる「確率」のみです。
観測された瞬間に、そのうちの1つの状態が「確率的に」選ばれます。「ボルンの確率解釈」と言います。
量子力学における「確率」は、知らないという知識不足を補うものではなく、そのものに内在する本質とされます。
観測という行為自体が、粒子の状態に影響を与える…その時まで決まってなんかいないという事になります。
決定論的な古典的世界観とは大きく異なります。
だから決定論側から見るアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と述べました。
何を言いたいのか分からなくなってきましたが、僕らの未来は決まってなどはいないのです。量子論ではないですが、その時何をしているかの解釈で何者かが決まる。
ならば自分というものが既に決まり切ったものであるということはなく、如何様にも。
その人の本質が変わるということはあまり無いと僕は思っています。人はそう簡単には変わらないし、変わる必要もない。
変えられるもの、変えるところは行動です。内面なんて正直誰にも分かりません。把握できるのは観測できる行動ですから。
今考えていることが、出来ないなんて事はないと思うので、行動に少しずつ移して行こうと思います。
出来上がるまで決まっていなかった茄子が、思いの外美味しい甘味噌炒めになったように。
浅すぎるか?と思った焙煎が結果はまったように。
明日も変わらず10時から18時まで。ゆるりとお待ちしております。
#unit_coffee_stand