今回の「成蹊を探れ!」シリーズは、「成蹊の歴史をテーマとしますが、硬くならず興味を持ってもらえるようにします・・・」と、前置きしてスタートしたのですが、今回と次回はめっちゃ硬いです(笑)記事は基本的に100周年記念事業として発刊した「福島成蹊百年史」を土台としているのですが、これを読んでいるうちにとても深く感銘を受けてしまいました。今回の記事はまじめな長文なのですが、TeamSEIKEI(成蹊ファン)の皆さんにおかれましては、ぜひとも読んでいただければ幸いです。せめてものバランスで、題名は少々くだけてみました。
初代校長の熊田子之四郎(くまだねのしろう)先生は、1864年(元治元)、現・田村郡三春町に生まれ、東京帝国大学国文科を卒業後、教職の道に進み、1910年(明治43)に、福島県立福島高等女学校校長となります。しかし、1913年(大正2)4月12日に、熊田先生に突如、休職辞令が出たことが新聞報道されます。このとき何があったのかは具体的には分かりませんが、当時の資料からは、熊田先生自身「寝耳に水」であったこと、生徒達が休職に強く反発したこと、「(熊田先生に)何の過失もない」という報道があったこと、などがうかがわれます。
そんな中、辞令報道から1ヶ月後、5月18日の福島民報では熊田先生が「有力家の後援で女子教育の家塾を設立」と報道されます。続いて、5月23日の福島新聞では「私立成蹊女学校と称す」、6月5日の福島新聞では「専ら女徳を涵養し比較的短年月の間に女子に必須なる学術技芸を授け、以て温良貞淑なる女子を教育する目的なり」と報道され、6月16日の開校を迎えることになります。
熊田先生が、突然の解任からたった2ヶ月で新たな学校の立ち上げにいたった経緯は以下のように推測できます。
熊田先生は、地域の実態に即した理想の女子教育の実践を試みましたが、様々な軋轢の中、更迭。しかし「女子に対し、比較的短期間で実用的な教育を施す」という理念は、時代、地域のニーズに応えており、賛同した福島市内の政界・財界の有力者たちの支援が瞬く間に拡大し、「福島成蹊女学校」の創立へとつながった、ということです。このことは私学の本質でもある「理想の教育は私学でこそ」という考えにも通ずるものであると感じます。
開校式直前、6月13日の福島民友に掲載された記事からは、当時の地域のニーズと熊田先生の目指した教育が伝わってきます。
「成蹊女学校方針
今回開校せる私立成蹊女学校の教育方針に関し、熊田子之四郎氏の発表せる処によれば、現代の女子教育の欠陥を補えるが如きものあり。地理歴史の如きは特に時間を設けず完全なる地図を教室に備え付け、火災その他の注目すべき事件の発生したる場合を利用して地理を説き、歴史を談ずる由。割烹の如きは時節向きの野菜魚類を収集して昼飯の食用に実費を徴し、また来客あるの際は生徒をして接待の任務を与えて一家の主婦たるに最も適当なる教育を施し、珠算を練習せしめ裁縫の如きも成るべく実際的ならしむるは勿論教師の人格を主として採用し、教授時間中に生徒を人格化せしめん考えなり。
割烹教育は福島の料理法を以てし、土地適当のものたらしめんという。而して読書科に力を注ぎてその間にあらゆる方面の知識を与うべく。一方細字の練習を為さしめて家庭の人をして記載上の思想を養うべしとのことにしてハイカラ教育を避けんとする方針なりという斯くの如きは誠に喜ぶべき也」
ここからは「人間・人格教育」「実践・経験の重視」「地域に目を向ける」といった教育理念、また、具体的な方法としても「読書により多角的な教養を養う」「書写を通して思想を養う(現在でも『天声人語』を書き写して、語彙を養い時事への理解を深める取り組みを行っています)」など、現在の本校の教育に通ずるものがすでにはっきりと表されており、成蹊の教員としてあまりに驚き、また、感動し、つい全文を引用してしまいました。「ハイカラ教育を避けん」からも熊田先生の骨太で真摯な人柄が伝わってくるように思います。
そして、実際にどのような教育が行われたのか。大正4年卒業で初代同窓会長の高木八重さんのことばが残っています。
「当時の福島は文化水準も低く、特に女子教育においては見るべきものがございませんでしたから、成蹊女学校は県下注目の的でした。それだけに、相馬や二本松の方面からもずいぶん参っておりました。羽織に茶金鵄の筋の入った袴姿で二里も三里も離れた山奥から通ったのでございます。いつ起きてやってくるのか不思議なくらいでした。年齢もずいぶん差があったように記憶しております。全部で五十名程しかおりませんでしたが、集まったこの人たちは『成蹊に入れるほどのご身分』として羨ましがられておったのです。(中略)成蹊女学校の教育水準は高うございました。私は福島高等女学校から試験を受けて成蹊に入ったのですけれども、とても進んでおったことを記憶しております。読み方(国語)などは高等女学校の二倍も進んでおったことを記憶しております。」
「成蹊を探れ!第9回 家庭科のDNA」でもふれましたが、当時の生徒たちが誇りを持って、水を得た魚のように学んでいたことが伝わってきます。中には成蹊に入学するために「ハンガーストライキ」を決行し、両親を説得した生徒もいたそうです。
今年の墓参では、熊田先生の熱い想いが107年後の現在も脈々と受け継がれていることを、改めて報告したいと思います。
福島成蹊高等学校ホームページ→http://www.f-seikei.ed.jp/hs/
福島成蹊中高一貫ホームページ→http://www.f-seikei.ed.jp/jhs/