最終回は、前回をさらにさかのぼって「成蹊」という大きな枠組みを追ってみました。前回にもましてまじめな長文なのですが、本校の教育の本質に少しなりとも迫ることができたと感じています。TeamSEIKEI(成蹊ファン)の皆さんにおかれましては、ぜひとも読んでいただければ幸いです。
「成蹊」という校名を持つ創立時から持つ学園としては1913年(大正2)創立の本校、1912年(明治45)年創立の「成蹊学園」(東京都吉祥寺)、1933年(昭和8)創立の「大阪成蹊学園」があります。これらの学園は校名の出典が同じではありますが、直接の関係はありません。その校名の出典が本校の校訓である「桃李不言下自成蹊」です。これは中国の古典『史記』において、李廣(りこう)将軍の人物をたとえて作者の司馬遷が用いた表現です。(この句の解釈は、この文章の最後に触れたいと思います)
李廣将軍は前漢時代の武人です。武勇に秀でていたものの、戦功を認められることのなかった悲運の人物と言われています。李廣将軍が、誇りを守るため自らの命を絶ったとき、「天下は知る人も知らない人も涙を流した。それは彼の誠実さと忠誠心が知られていたからである」と記されています。この李廣将軍は、現在、大人気のマンガ「キングダム」の主人公「信(李信将軍)」の子孫、一説には孫と言われています。また、李廣将軍の子孫には、中島敦の小説に描かれた「李陵」や中国史上に名を残す詩人の「李白」がいます。
実は日本の教育界で「成蹊」の名を最初に使ったのは、嘉納治五郎先生と言われています。皆さんご存知のように、講道館柔道の創始者であり、アジア初のIOC委員にもなった方で、昨年の大河ドラマでも主人公クラスの扱いでした。嘉納先生は自身の理念を具現化するものとして、1898年(明治31)に「成蹊塾」を立ち上げています。東京の成蹊学園の創立者である中村春二先生は嘉納先生と子弟関係にあり、1906年(明治39)に成蹊学園の前身となる学生塾「成蹊園」を創設していますが、その前に嘉納先生に理想の教育について教えを請い、嘉納先生は「理想の教育は自由な立場に立つことである。今必要な徳育、精神教育を主眼とする私塾を起こしてはどうか」と伝えたとされています。
福島成蹊学園の創設に関わり初代校長である熊田子之四郎(くまだねのしろう)先生は1989年(明治22)に東京帝国大学に入学しています。その時期に加納治五郎先生は同大学で柔道の指導をしていました。そして熊田先生も学生時代より柔道の修練を積まれ、福島県でも長年、柔道界の会長を務められました。残念ながら嘉納先生の著作や記録に「熊田子之四郎」の名は見当たりません。したがって、推測の域は出ないのですが、上記の状況からすれば、二人の間に何らかの関りがあったと考える方が自然ではないでしょうか。そして、熊田先生も、「成蹊」という教育理念のバトンを嘉納治五郎先生から渡されたのかもしれません。
107年間不変の校訓「桃李不言下自成蹊」は読み下すと「桃李(とうり)もの言わざれど、下、自(おの)ずから蹊(こみち)を成す」となります。私も広報という仕事がら、この校訓について説明する機会が多いのですが、『福島成蹊百年史』の冒頭を飾っている文章には、あまりの感動に涙を禁じ得ませんでした。本校の教育の本質を見事にとらえ、流麗に表現されたこの文章は、70年前に書かれたとはとうてい思えないほど、現代における本校の役割を示しているように思えます。熊田先生を長年支え、戦後、4代校長となった明石智真先生が、成蹊が新制高校に転換する直前の1947年(昭和22)に機関誌『こみち』創刊号に寄せた文章です。
少々、長いのですが、私に要約する資格があるとは思えません。ぜひ、読んでいただきたいと思います。(多少、漢字を仮名に変え、読みやすくしています)
「『蹊』といえば、深山に通う杣人の谷間伝いに往来する山径を思う。誰がいつの間に作ってくれたのか落ち葉におぼろな蹊も、自然なしかも不規則な一縷となって高山の頂にあるいは高原のお花畑へと通ずる。
史記の李将軍伝に『桃李不言下自成蹊』という句がある。故熊田子之四郎先生は本校の名をこの句に求められたのである。『成蹊』は人工を加えて切り開かれていく立派な型のある道ではない。荊をよけ大木を廻り、渓流さえ飛び越えて拓かれて行く、粗野なそして自然な道なのである。そこは樵夫も通れば自然を愛する山人も通る。時には、山猿も熊も月をめで花を愛して、通るかもしれない道それが蹊なのだ。
史記のこの句は、人里に春を香ぶ桃李ならすぐ人に折られもしようが深山に咲く桃李は誰一人として愛でてくれる人もいない。しかしいつかは、芳香かんばしい桃李は春風に下界に送られてくる。そして誰かその桃李のありかを求めて、深山に入り、その香しさ美しさをめでてくれるものである。このありかを求めて踏み入る人跡が永遠の蹊として大地に跡づけられていくのである。
深山に春を咲いても、桃李は人に愛でられるように人は自らを謙虚にして、内に蔵する所あれば自己宣伝をしなくても世の人々はその徳操を称え敬うものであることを教えている。軽薄な深みのない人ほど、自らを自分の持つ価値以上に宣伝したり認めてもらいたがったりして焦るものだ。こういう人は、人に恩を施せば必ず交換的に報いを求める人なのである。私達は道義の退廃した社会の渦中にあっても、この深山の桃李でありたいものだ。わたしたちは人から求められる人、全ての人に愛される人になりたいものだ。それは深山の桃李のごとく謙虚に落葉に消えても絶ゆることのない蹊のごとく一貫した変わらない心(信念)をもつべきである。秋の空は変わり易く、澄む月にも、いろいろな浮雲が往来するが月は依然として月の光を保っている。世の中がいかに移り変わっても、この自分というものをしっかりつかまえて心の光で、すべてのものを照らして行くという確然不動のものでなければならぬと思う。『風吹いて動かず天辺の月』でどんなに風が吹いても天上の月は動くものではない。この動かない天上一輪の月は、影はさまざまなものに宿して『千江水あり千江の月』大海の月にも映れば、谷川の小さな流れにも映り、渺々たる大きな湖にも宿れば、草の葉におく露にも宿る。金殿玉樓も照らせば、あばら屋の窓もる光ともなる。私達の心も、この月のように動かず変わらずその光を磨きあげてこのせち辛い世相にあって千変万化の世の中を照らして行きたいものである。」

残念ながら、休校期間が延期となってしましました。その中でも今回は登校日がありますので、できる限り生徒の様子をお伝えしていきたいと思います。生徒がいない日は、また別の企画をお送りしますので、ぜひ、ご覧ください。
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