福島成蹊よくある質問


新着情報

2020.04.30

成蹊を探れ! 第9回 「家庭科」のDNA ~地域をリードした教育~

 高等学校の制度は学校教育法で定められています。「課程」として「全日制」「定時制」「通信制」の3つがあり、「学科」として大きく「普通科」と「専門学科」に分かれ、専門学科の中に「農業科」「工業科」「商業科」などがあります。

 本校では、よく「特進科」などと勘違いされるのですが、現行の「特別進学」「文理選抜」「普通」「一貫」はすべて「コース」です。法的な制度ではなく、学内の教育課程(カリキュラム)の違いによる区分となります。制度としては成蹊は全て「全日制・普通科」です。現在は日本の高校生の70%以上が普通科に所属しています。

 しかし、成蹊の始まりは「普通科」ではありませんでした。

 成蹊は女性に実学を教育する学校として1913年(大正2)にスタートしました(詳細は「成蹊を探る! 第10回成蹊爆誕!~熊田子之四郎伝~」をお待ちください)。開校時に募集した学科は「本科」「専修科」「教員養成科」の3つでした。どの学科も「裁縫」に重きを置いています。「教員養成科」は当時、小学校裁縫科の代用教員資格につながるものであったようですが、社会状況の変化により1921年(大正10)3月の卒業生をもって廃止となりました。

福島成蹊中学校・高等学校|福島県・中高一貫校・オープンスクール

 以後、名称を変えながらも、「裁縫」に軸足を置いた教育課程が40年余り続いていきます。「裁縫」は、次の特徴にあるような、とてもハードな授業でした。
  ○1年次の1学期から、同時に3種類の制作をするなど、容易ではない内容。
  ○1日の裁縫の時間は4時間前後。基本指導2時間、残り2時間が制作。放課後や家庭での制作も。
  ○1学年で42種類を制作し、合格点を得て進級。
 
 「
勉強しようとする意気込みも大変なものでございました。休み時間などないといってもよいくらいで、競争するようにひたすら縫物ばかりしておりました。一枚でもよけいに出そうと夢中だったのです。裁縫が非常に優れていた私たちの学校は、女子としては誰にも負けない程の実力を示しました。従って県下一を誇っておったのでございます。(中略)そして実践的な面が特に抜きんでておりました。裁縫はもちろん、お習字、珠算などはよく指導され、今日は市長さん、明日は駅長さん、その次の日は大きな店の店主さんといった実社会で活躍している方の講義もお聞きしました。」(1915年(大正4)本科卒・初代同窓会長 高木八重さん)
生徒たちが寸暇を惜しんで生き生きと取り組む様子や、実社会で役立つ実践的な教育を重視していたことが伝わってきます。

福島成蹊中学校・高等学校|福島県・中高一貫校・オープンスクール
福島成蹊中学校・高等学校|福島県・中高一貫校・オープンスクール
  
 創立時の「福島成蹊女学校」はいわゆる「各種学校」の扱いでした。その後、太平洋戦争などをはさみ、学校をめぐる制度も大きく変わり、いわゆる「新制高等学校」となるまでに、本校の名称は次のように変化しました。
  1913年(大正2) 私立福島成蹊女学校
  1923年(大正12) 社団法人私立福島成蹊女学校
  1925年(大正14) 社団法人福島成蹊女学校
  1944年(昭和19) 財団法人福島成蹊女子商業学校
  1946年(昭和21) 財団法人福島成蹊女学校

 太平洋戦争が終わり、日本国憲法が公布され、教育基本法、学校教育法が成立していく中、本校も1948年(昭和23)「財団法人福島成蹊女子高等学校」として認可され、ついで私立学校法の施行により、1951年(昭和26)「学校法人福島成蹊学園福島成蹊女子高等学校」となりました。この時点でも被服・裁縫を中心とする教育課程は変わらず、たいへん高い教育水準を保っていたことががうかがえることばがあります。
 「
赴任して専攻科のクラス担任となり、主として洋裁を担当しました。専攻科生とは、各女学校を卒業した生徒を対象に、成蹊、福女、梁川、川俣、弘前高女卒業生24名でした。和洋裁の基礎と技術理論をしっかりと身につけさせ、応用技術までの指導にあたり、教員養成と家庭の主婦となり、将来女性として役に立つよう教育することが目的でした。各中学校からは家庭科に優秀な生徒が志願してきました。それだけに応募者も多く、合格することが困難の時代もございました。家庭科に合格すると、福女に合格しても成蹊に入学する生徒も何名かおりました。やがて卒業生たちは中学校、高校に就職、立派な教師となり、福島県家政科会議に私と一緒に出席した教え子の姿はほほえましい限りでした。」(1948年(昭和23)着任 教員 成山ミツイさん)

福島成蹊中学校・高等学校|福島県・中高一貫校・オープンスクール

 新制高校となり、家庭科と普通科で同じ定員の生徒募集を行ってきました。しかし1980年(昭和55)には普通科と家庭科のクラス数は5:3、1987年(昭和62)には6:2、1991年(平成3)には8:2となっていきます。進学志向も強まり、普通科のニーズが高まっていったことは全国的な傾向でした。伝統の家庭科の灯は守るべきという声も根強くありましたが、1994年(平成6)4月の入学生より家庭科を募集停止することが決定されました。

 こうした状況の中でも「魅力ある家庭科」をどう作るか、という取り組みは継続的に行われており、その象徴が1988(昭和63)から大規模に行われてきた「ファッションショー」でした。当時のレポートでは「ファッションショーを通して、学校での学習が開かれた文化として地域の人たちと共有できることのすばらしさを生徒も教員も学ぶことができた。『家庭科でよかった』『成蹊でよかった』と口々に言いながら、誇りを持って卒業していく生徒たち。ショーをやりとげたということ以上に、地域の人々に認められたという喜びがそこにあるように思う」とあります。伝統の家庭科は、徐々に規模は縮小したものの、そのなかで生徒を育て上げる取り組みはまさに成蹊の教育の神髄を極めていたと言ってよいでしょう。

 家庭科最後の生徒が3学年となる1995年(平成7)に「家庭科のフィナーレを記念し、新しい成蹊を祝う会」が挙行され、卒業生でサッカー選手(現・なでしこJAPAN監督の高倉麻子さんの講演会、同窓会企画のファッションショー「本校制服の変遷-ちょっとタイムスリップしてみませんか」、そして、最後の家庭科3年生によるファッションショー「アジアからの熱い風」が行われました。

福島成蹊中学校・高等学校|福島県・中高一貫校・オープンスクール
福島成蹊中学校・高等学校|福島県・中高一貫校・オープンスクール

 以後、家庭科は、被服、食物、保育、福祉などの進路・進学に対応する「普通科・生活文化コース」として改編されましたが、これも平成19年度の卒業生を最後に廃止されました。

 では、家庭科は消滅してしまったのでしょうか。確かに、現在は共学化され、進学希望者が95%となり、難関大学に進学する生徒も増えました。しかし、日常的にたくさんの生徒が(ときには抽選になるほど)ボランティア活動を行い、ふれあいコンサートの運営には多くの有志生徒が携わり、そして、何よりも、今回の文章でお伝えした生徒の姿と、勉学や部活動に真摯に取り組む現在の生徒の姿は重なってくるのです。桃李の精神とともに、家庭科のDNAは、成蹊生の中に深く刻み込まれているように思えてなりません。

福島成蹊高等学校ホームページ→
http://www.f-seikei.ed.jp/hs/
福島成蹊中高一貫ホームページ→http://www.f-seikei.ed.jp/jhs/

COMMENTコメント

※本コメント機能はFacebook Ireland Limitedによって提供されており、この機能によって生じた損害に対して福島県北最大級ポータル『ぐるっと福島』は一切の責任を負いません